あまりにも無気力な状態が続いて、まあこれが俺なんだろう別にこのままでもいいかあと思っていたのだけど、瞑想したら復活してきた。
マインドフルネスというのかメディテーションというのか禅というのか、言葉はどうでもいいんだけど、深く自分の本心に耳を傾けるみたいな行為、もっと厨二病っぽく言えば自分の魂と対話することが急にできるようになった。それをここでは”瞑想”と呼ぶ。いや結構ヤバそうなこと言ってる自覚はあるけど、マジなのだ。宗教とかセミナーとかネットワークビジネスとかそういうのは一切関係ない。あと薬物もキメてない。
便宜的に”魂”という言葉を用いるけど、特にキモい意味はなくて”深層意識”程度の意味。ただ、俺が普段自覚している”脳”による”表層意識”とはまったく別の生き物でありそうなことがわかったので、それと明確に区別するために”魂”と表現しておく。
まず、無気力な状態がどのようなものであったか語ろう。
仕事にはまあ行けるが、それが全て。仕事して帰ってきたら、それ以上一切なにもできない。帰りに電車に乗るのが厳しくてタクシーで帰ったりする。
自分の意志では徒歩30秒のコンビニに行くことすらできない。
本(種類を問わず)が読めない。動画を見ていることが苦痛。ゲームとかもやりたくない。要するにジッとしていることしかできない。
掃除とか整理整頓とかは根が綺麗好きなのである程度に達したらやるけど、ゴミを毎回捨てるみたいな定型作業はできない。
食欲はないが食べられないわけではない。あれば食べる。
あらゆる能力に低下がみられる。脳を使うことも体を使うこともヘタクソになった。
一時的にだが、自分が言ってることが理解できなかったり、物忘れが激しくなったりする時期もあった。
性欲とかもなくなる。そもそも異性と交流する気力がない。
飲み会に誘われれば別に行ける。だけど以前より喋れなかったり、なにが楽しいのかわからなかったりする。
どこにも行きたくないしなにもしたくない。かといって死にたいわけでもない。
くらいの状態。総括するとやりたいことすらやれないという感じだ。
なんかなー疲れてるのかなーと楽観視していたのだけど、あんまり普通じゃなさそうな上にこのままだと人生つまらなさそうなので意識改革を検討した。結構色々試したんだけど、あれ?俺なんでこんな無気力なんだっけ?動けばよくね?みたいな明らかな変化がみられたのが瞑想だったって話。
正確には同時期に禁酒と瞑想とランニングを試みたらなんかうまくいったので、原因の切り分けはできていない。だけど、あーブレてきたなと思ったら瞑想することでマインドセットを修正できるようになった。だからここでは瞑想について語りたい。いや多分禁酒したのがほぼ全てなんだけど、瞑想というのバカにできねえくらいの話。
瞑想の方法は、まったくわからないので書かない。ある日突然できた。気になる人は調べてみればいいと思う。だけど、魂と対話するに至るには言葉では言い表せない感覚があって、人のやり方を参考にしてもあんまり効果的ではないかもしれない。ただし、一回できてしまえばあとはすぐに魂にアクセスできるようになる。
魂との対話は、鬱陶しい。ものすごく子供じみているというか動物的というか、とにかく非合理的。耳を塞ぎたくなる。だけど、魂は間違いなく俺の一部。それを煩わしいものだとして一切合切無視して生きてきたことに気づく。
俺の脳は、この世は虚無でしかなくて、なにかを成し遂げたとしてもなんの意味もなくて、死んだら肉塊になるだけ。生きてる意味とかそういうのあると思ってるのヤバいねお前らとしか考えられない。これが覆ることはこの先も多分ないし、変える気もない。事実は事実として受け入れるべきなんじゃないのかね。
一方で魂には、基本的に今を楽しく快適に過ごしたいよ~という欲だけがあるようだった。例えば「温かいスープが飲みたい」とかだ。そう魂が言ったときに、いや用意すんのめんどくせえし水でいいや。という判断は極めて正しいようにみえるが、この判断は自分を無視し、傷つける行為に他ならない。
些末なことであるが、このような判断を繰り返した結果「なにもかもする意味がない。動きたくない。なにもしたくない。」という状態に陥るのだと思う。この状態がもはや人生のデフォルトだった。動けるレベルに波はあれど、思い出せる限り高校生の頃から、なにかをしたいとか、どこかに行きたいと心底思ったことが皆無。
そりゃまあ、誘われたら参加する。けど、○○しようぜ!とかって誘われるたびに、なんで???という思いが強く、当日はかなり無理して行くことがほとんどだった。行けば大体楽しいんだけど、ほとんど毎回不毛な時間だったな…なにかもっと有意義なことをするべきだったんじゃないか…という後悔が残る。
この後悔こそが脳がつく大嘘で、魂は喜んでいる。友だちと会えて嬉しかった。いつもと違うことをして楽しかった。魂はそう言っている。だけど、脳がそれらを全て否定していた。無意味だったねと。
その結果「もっと有意義なこと」すらできなくなったように思う。魂が拗ねてしまった感じだろうか。そもそもこの世は虚無だと考えているくせに、意義もなにもねえだろ。この時点で矛盾している。
前述のとおり、俺の思想は虚無感が強い。字面だけみるとネガティブにみえるのだが、そうでもなくて、全てをフラットに捉える素地がある、ということだ。全てがどうでもいいと捉えることもできるし、全てがとても大切なことだと捉えることもできる。全ては本質的には等しく無価値だから。
俺は「全てがどうでもいい」という捉え方をして生きてきた。これが魂が拗ねた結果なのだろう。
全部めんどくさい。これ以上に強い思いが他にあるだろうか。朝起きてニャーとか言って水飲んでご飯食べて寝たらそれが最も幸せなんじゃないか?すごく正しそうだ。
だけど、それはやってみたらあんまり幸せではなかった。
めんどくさくてもやりたいことがあるんじゃないの?
そう魂に問いかけてみると「かっこよくなりたい」という極めて稚拙な欲求のみがめんどくささに打ち勝てるらしいことがわかった。
ここで言うかっこよくなりたさというのは、当然容姿の話をしているわけではない。自己実現欲求という言葉に置き換えて概ね相違ない。
めんどくささ>かっこよくなりたさという不等式が常に成り立ってしまっているせいで、動けなくなっていることはわかった。とはいえ、すべてを「めんどくさい」で切り捨てて生きてきたわけでもなかろう。そこで、最後にどうしてもやりたくて仕方がないと思ったことはなんだったのか魂に問いただしてみたところ、一つだけあった。
高校生の頃、今よりもはるかに鬱と睡眠障害がひどく、一切生きていたくなかった。高校時代に家でまともに眠った覚えがない。だけど、部活だけはやりたくて仕方がなかった。そのために這ってでもとにかく学校に行って寝て、体力を蓄え、放課後の部活に備えていた。
部活は、器械体操をやっていた。バク転ができたらかっこいいのではないか?というアメーバ的憧れから衝動的に始めた部活動であった。
分解すれば、体操をやることによってかっこいい動きができるようになって肉体もかっこよくなったらすげえかっこいい。そのために頑張っていた。つまり、体操をすることで得られるかっこよさの期待値がめんどくささを上回った。というようなことになりそうなのだが、そんなことを考えて体操をやった覚えはない。目的とかなにもなかった。ただただ、体操するのが好きだった。
わりと多趣味だから、他の趣味と比較して、体操の方が好き?と聞かれると迷うんだが、俺の人生にとってはズバ抜けて特別なものであるようだ。それはつまり、一切合切生きていたくなくて今すぐ消えたいというマインドであっても、なぜか体操だけはやりたかった。という原体験に基づくものなのだろう。原理は魂に聞いてもわからないし別に解明する気もない。とにかく俺にとって体操は死に勝る救いであったらしい。これは宗教っぽいね。内村航平でも讃えるか。
ということを、瞑想したあとに久々に倒立でもしてみるかあ。こうだっけ?あれ?こうか??お、ちょっとうまくできた!などと試行錯誤しているときに悟った。
俺がやりたいことはこれだった。ただ、綺麗に倒立ができたら嬉しい。なんの意味もなくとも。
それに気づいて以来、おお、俺はこんなにも無意味なことに喜びを覚える人間だったのか。であればもっと無意味なことしてやろう。
お茶を煎れて飲んでみようか。意味ねえな、ウケる。
部屋ももっと綺麗にしてみようか、別に汚くてもまったく困らないから意味はないけど。
ベッドにずっといるのもやめてみようか。ベッドにいた方が楽だけど。
そんなようなマインドセットに切り替わり、少しずつ動けるようになってきた。
今ただ一時的な躁状態であるだけかもしれない。また鬱がひどくなれば、この文章もなに言ってんだ瞑想ごときで動けるようになるわけねーだろ死ねとしか思わないだろう。だけど、なにもかもを唾棄するような精神状態であっても、体操だけはしたかった。という魂の所在はきっと正しくて、尊重しなければならない。
だから、とりあえず倒立してみる。綺麗にできますように。